1947-12-05 第1回国会 衆議院 厚生委員会 第37号
先般も申し上げましたように、川井章知君は東京の出身で、大正十四年東京帝大法學部を出て、その後官界に主として在住せられ、本年靜岡縣知事を退任された方であります。なお川井專門調査員から御挨拶のため發言を求められておりますから、これを許します。
先般も申し上げましたように、川井章知君は東京の出身で、大正十四年東京帝大法學部を出て、その後官界に主として在住せられ、本年靜岡縣知事を退任された方であります。なお川井專門調査員から御挨拶のため發言を求められておりますから、これを許します。
むしろそういう人材は一般の大學の法學部に入れてそうして教養を再教育するという必要があるならば、やるべきであるという私は意見を持つております。 それから以上申しましたように、形だけが民主化されましても、實體が民主化されていないのでありまするから、若しこの制度が運用されまするならば、そこにいろいろ弊害を豫想される。これを是正するところのことを我我は考えて置かなければならんと思うのであります。
從つて現在の法學部とか經濟學部におられる大學生の卒業に近い人に對して、これは相當の景響だろうと思います。まだその反響を聞いておりません。しかしこの職階制はやはり非常に急ぎましても一、二年かかるのでありまして、それまでの間、現在のような幹部職員のとり方を全然無視することはできませんから、ある程度の變形をしてもう一囘は必らずやるだろうと思います。
自分の恥をさらすようであるが、私は關東大震災のとき中大学學の法學部一年生であつた。自分の家はまたたく間に燒け畫した。私は當時學僕をやつていたが、この東京市を離れて自分の郷里に歸つて代用教員をやろうかと考えた。ところが災害が恐ろしいというのでこの東京市を捨てて歸れようか。死んでもこの東京市の復興に努力しなければならぬと考えて、私は大震災直後、東京驛頭に出て人力車夫を一箇年やつた。
大體の經歴を申し上げますと、東京府立第四中學、第一高等學校を經まして大正十四年に東京帝國大學法學部法律學科を卒業しております。官途につきまして茨城縣局を振出しに主として地方官を勤められておりますが、この間には歐米各國に出張もいたしております。いろいろ地方官吏として歴任しました後に、最後は靜岡縣知事でありまして、本年の三月八日に靜岡縣知事に就任しました。
簡單に履歴を申上げますと、明治四十三年の生れで、大阪の北野中學校を昭和三年に卒業して、それから第六高等學校の文科乙類を出て、そうして東京帝國大學の法學部を昭和十一年に卒業、それから日本電力株式會社に直ちに入社して、それから電力統合と共に日本發送電の設立事務所に入つて、そのまま日本發送電に入社、それから昭和十七年には戰爭中でありましたので、内閣總力戰爭研究所の第二囘の研究生として電力部門から送られて研究生
もう一人の書記につきましては、黒田能行君といいまして、黒田君は福岡縣の出身でありまするが、昭和十七年に東京帝國大學法學部政治學部を卒業されまして、今日まで横濱正金銀行に勤務をされ、主としてやはり財政經濟の調査に從つてこられた方であります。書記としてぜひ財政を研究したいという御希望でありまして、私より皆さんに御推薦をいたしたいと存じます。いかがでございましようか。
最後に東京帝大の法學部研究室でつくられたと言われております諸外國における選擧制度及び地方制度というような資料が内務省にあるはずでありますが、これがございましたならば御配付を願いたい。もし部數等が足りませんでしたならば、この中にあります特にアメリカ合衆國各州の選擧制度の項目を拔萃して委員に配付をお願いいたしたいのであります。以上私は資料の提出を要求いたします。
現次官の岡松成太郎君は、東京の大學の法學部で一年間助手をやつたことがあるので、私と机を竝べてともに勉強したのであります。個人的には、商工省に對しては非常な親しみをもつておるのでありますけれども、あえてこの文化委員會といわず、衆參兩院を含めた常任委員會の權威のために、一言申し上げておきます。(拍手)